映画祭について


 チェコスロヴァキアでは、1950年代の政治的な抑圧が1960年代に入ってやわらぎ、自由化の大きな波が訪れます。この時代、国立プラハ芸術アカデミーの映画学部(FAMU)の卒業生が新世代の監督として多数登場します。ヤン・ニェメツ、ヴェラ・ヒティロヴァー、ヤロミル・イレシュ、イジー・メンツェル、ミロシュ・フォルマンなどは共にFAMUで学び、1930年代から活躍する監督オタカル・ヴァーヴラに指導を受けました。(ユライ・ヘルツは国立プラハ芸術アカデミーの演劇学部(DAMU)で人形劇を学び、同期にヤン・シュヴァンクマイエルがいます)

  彼らは相互に協力し合うことで豊かな創作環境を築きあげ、その作品は国際的に高く評価されました。この「黄金の60年代」に生まれた映画たちが、チェコスロヴァキア・ヌーヴェルヴァーグです

『ひなぎく』      ©:State Cinematography Fund
『ひなぎく』      ©:State Cinematography Fund

カレル・ゼマンの『狂気のクロニクル』はヌーヴェルヴァーグの監督の一人であるパヴェル・ユラーチェクの脚本で、30年戦争をユーモアたっぷりに描き、カンヌ映画祭で数々の賞を受賞します。

  ヤーン・カダールとエルマル・クロスの『大通りの商店』は1965年にチェコスロヴァキア初のアカデミー賞外国語映画賞を受賞し、翌年には、メンツェルも『厳重に監視された列車』で同賞を受賞します。

 

1968年の「プラハの春」が自由を求める民主化運動の最大の盛り上がりでしたが、同年、ソ連主導のワルシャワ条約機構軍の介入・市街地への戦車の侵攻という軍事的な圧力によって「プラハの春」は押し潰され、ニェメツ監督はワルシャワ条約機構軍侵攻の様子をカメラに収めた映像を国外に持ち出し、「チェコ事件」を世界に知らしめます。

  本映画祭では、政府に批判的な作品と判断されてニェメツ監督が逮捕され国内での上映が禁止された『パーティーと招待客』、日本初公開となる『愛の殉教者たち』、そして「プラハの春」の象徴ともいうべきヒティロヴァー監督の『ひなぎく』をメイン上映とし、日本でもよく知られているさまざまな監督の作品(9プログラム)を上映することで、チェコスロヴァキアのヌーヴェルヴァーグが1960年代を通じて体制に対しどのように抵抗したか、また1968年を境にどのように変化したかをご紹介いたします。

 

 イレシュの『受難のジョーク』は公開時に大ヒットしますが、チェコ事件後は上映禁止となり、原作者のクンデラは後にフランスへと亡命します。ヘルツの『火葬人』はチェコ事件で撮影が一時中断され、完成後に、短い期間だけ公開されましたがすぐに国内で上映禁止となり、メンツェルの『つながれたヒバリ』は完成と同時に上映禁止となりました。

 

 1968年の「チェコ事件」後、1970年から1989年までの自由化や民主化運動が抑圧された共産党独裁の時代は政府により「正常化」と呼ばれます。この時代、ヌーヴェルヴァーグの監督たちの多くは撮影の許可を得ることができず、ニェメツやフォルマン、カダール、クロスらは亡命します。

 

『愛の殉教者たち』      ©:State Cinematography Fund
『愛の殉教者たち』      ©:State Cinematography Fund

 ベルリンの壁崩壊後のチェコスロヴァキアにおける民主化運動は「ビロード革命」と呼ばれました。これをきっかけとして亡命していた映画人も母国に戻り、上映が禁止されていた作品の国内での上映が始まり、国際的にも再評価され、メンツェルの『つながれたヒバリ』は1990年ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞します。

 

 チェコスロヴァキアは、オーストリア=ハンガリー帝国時代には母国語が禁止され、ナチス政権下でも自由や権利が奪われました。さまざまな抑圧の中でも常にユーモアを持ち、自分自身をも笑い、普通の生活をする人々に寄り添い、芸術がもつ価値を信じて作ったからこそ、このヌーヴェルヴァーグの作品群は、時代を超えた普遍性を獲得しました。

 

 2017年はチェコスロヴァキアと日本の国交回復60年の年でもあります。本映画祭を通して、チェコスロヴァキア映画の革新性、豊かさに、多くの観客が接していただけることを願っております。